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【微忙録】

明日の自分への覚え書き

努力をすれば報われるのか

表題の通りである。

「努力をすれば報われる」という言葉があるが、そもそも努力というものは何なのか、そこにいかほどの価値があるのか、今回はそんな、過程と結果の話である。

努力(どりょく)とは、目標を実現するために、心や身体を使ってつとめること。

広辞苑第五版 当該項目部分より

と、かの大辞典にも記されている、現代においてはこれが努力という行為の持つ一般的な定義と言っても差し支えないであろう。

努力とその結果については、基本的に以下の四つに大別することができる。

A...努力をして、成果(成功)に結びつく。

B...努力をして、成果(成功)に結びつかない。

C...努力をしていないが、成果(成功)に結びつく。

D...努力をしていないし、成果(成功)も得ていない。

努力というものは、目標を達成するための行為であるから、結果として何らかの成果を得る必要がある。

ここで問題となってくるのは、努力をすればするほど、つまり頑張れば頑張った分だけ、必ず自ずと結果が出てくるなどという事はない、ということだ。そんな法則があれば、世の中のどんな人間でも努力を惜しむことはないはずだ。

ではなぜ、努力をする人間、しない人間に分かれるのか?それは、努力という行為に必ずしも見返りがあるとは限らないと、誰かに教えてもらうまでもなく、経験から勘付いているからに他ならない。

ここで、上記のパターンを成果の有無で分類すると、AとCが有、BとDが無となり、得られたもしくは得られなかった成果の量をそれぞれ等価とすると、A=C>B=Dとなり、評価されるべきはA、Cの二者となる。当然ながらこの場合は評価の量も等しい。

対してBとDの二者は、何も得ていないため評価の余地はない。努力の最終目標が成果を得る点にある以上、努力に対する成果と評価の関係はこのような単純明快なものとなる。

しかしながら、世間一般はこの理屈では回っていない。

努力をする行為、これ自体に評価が与えられる事例があるのだ。

Bのパターンが「失敗したけど、頑張ったから褒めてあげよう」となるケースや、

Cのパターンが「成功したけど、努力の跡が見られないのできっと偶然だろう、もっと頑張れ」となるケースである。

本来B<Cのはずの評価が、B≒Cとなるばかりか、B>Cとなる可能性すら持っているのである。

もう一例として、

Aのパターンが「よく頑張ったから成功した、素晴らしいことだ」

上と同じくらいCが「成果としてはAと変わらないが、Aの方が頑張ってたから印象がいいよね」

となり、A=CがA>Cへと転じる現象である。

ここで注目すべきは、当人が頑張っているか否かではなく、客観的に見て、頑張ったと見なされているのかどうか、つまり、第三者が自分の努力を観測しているか否かが、ここでの評価に大きく関わっている、ということである。

当人が努力をしたのを周囲が見ていた=努力をした

当人が努力をしたのを周囲が見ていなかった=努力をしていない

当人に努力をしたつもりはないが、周囲は努力をしたと見なした=努力をした

当人が努力をしていないし、周囲も見ていなかった=努力をしていない

というように、努力という行為は、成功に至る、もしくは至らないという結果に関わらず、結果に至るまでの過程を第三者の視点によって評価した指標の一種なのである。潜在的にどれ程の努力量があったとしても、観測されない限りは結実しないのである。

つまり、誰も見ていないところでいくら力を費やしても、成功に至らなければ、その過程どの程度自分が努力をしたのか知っているのは自分一人であり、世間からは努力をしていない、無価値である、という評価を下される。

冗長にこんな事を書いておいて、結局何が言いたいかというと、「努力をすれば報われる」を盲目的に信じて行動を起こすのはいかがなものか、という、それだけの事だ。

つまり努力をすれば必ず、もしくはいつかは報われる、というのは間違いで、努力行為を衆目に晒さない限りはいつまで経っても報われることはない。それを「お天道様が見ている」という、誰も見ていない状況下で報われたいあまりに、人を超越した概念に観測役をなすりつけるような都合の良い思想によって解決したがるのも日本人然としている。身もふたもないが、ここまで来るともはや宗教である。

この言葉を聞いて誤解してしまう人をこれ以上生み出さないために、これ以降はこの言葉を

「誰かの見ているところで努力をすれば、失敗したとしても多少の恩寵があるかもしれない」

とリフォームしてもらいたい。さながら異世界転生ハーレムもののタイトルの様相を呈しているが、諺は古く、そして簡潔すぎるので、近頃の人達には理解が追いつかない場合がある。これに限らず、古めかしい諺などは時代に適応させてこの程度の表記にすべきだと私は日々思うのだ。

 

 

 

 

 

黒歴史

黒歴史を焼かねばならぬ。

新入社員として仕事に就くのに際し、生まれて初めての一人暮らしを余儀なくされた。故郷である大都会名古屋市を後にし、人外魔境東京都へと単身、居を移したのだ。東京都民というブランドを手に入れる代わりに、家族(主に愛猫)と離れた生活を強いられたのだ。とは言っても、他でもないこの私が関東圏の勤務を希望した張本人なのだが。

引越しをするにあたり、断捨離に断捨離を極め、私の二十余年は、段ボール箱にして凡そ六つ分に換算された。数年間触れもしなかったものから、大学で使っていたものまで、一切の感情を排して実用性の無いものを捨てまくったのだが、唯一、その機械的処理が及ばなかった物品がある。

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黒歴史ノート。地獄の蓋もかくやといった様相を呈している。

 それこそが、黒歴史ノートである。何の変哲もないお馴染みのCampusノートに、私の中学生から高校生に及ぶ創作物(主に絵)が詰め込まれている。設定を練るだけ練って満足、或いはそれを活かして作品を作り上げるのが当時の私からしてもオーバーワークであると察したのかは定かではないが、投げ出されたもの。流行を模倣しすぎて何が何やら分からなくなっているオリジナルのキャラクター、その時入れ込んでいたアニメや漫画の模写。挙げていけばキリがないが、どれもこれも今の私からすると恥ずかしくて情けなくてどうしようもない代物だ。何より、書いてある設定の意味が理解出来なさすぎて敵わない。きっと誰しも多かれ少なかれそういった時期は通ってきていると思うのだが、趣味で絵を描いていたお陰で形に残ってしまっているのが致命的だ。おまけにパソコンを弄るのも好きだったおかげで、当時のブログなんて代物もついこの間まで恥ずかしげもなく残存していた。無論だが、この文を執筆時点ではそれらの負の遺産は思いつく限り、覚えている限り削除してある。

では、なぜこれらを捨てられないのか?処分できないのか?引っ越しの断捨離に乗じずに、実家からわざわざ一人暮らしの我が家に持ってきたのか?これには恐らくだが理由が二つある。

まず一つは、過去の自分が懸命に描いたであろうこれらを無下にしてしまうのが、今の自分にとって少なからず躊躇われる気がするという点。

次に、ゴミを集積所に出してから回収されるまでの時間に、このノート達が人目に触れる可能性を僅かでも孕んでいるという事実が、私にはなんとも耐え難いという点である。

両者とも精神的な話なので、無理矢理ゴミ出しをして布団を被って大人しくしていれば、ゴミ収集業者殿がつつがなく回収してくれて、然るのちに誰にも知られず灰燼と化し、私の長年の懸案事項は晴れて処理される、という事は頭では理解出来ているのだが、どうにもこうにも処理するタイミングを逃し逃して、引越し後2週間ほど経ってしまい今に至る。

集積所まで歩いて数秒のはずが、いつまで経っても到達出来ないのだ。そもそもこれらを引きずり出して、ビニールテープで括って纏めることすら私の腕は従ってくれそうにない。

恐らくだが、シュレッダーを用いれば安全に処理できる。しかしながら、このためだけにシュレッダーを用意できるほど、今の私の懐事情は芳しくないのである。

挙げ句の果てには引き千切って、少しずつ我が胃に収めてやろうか、などと、心の中の天野遠子先輩が顔を出すのだが、いくら天野先輩でも不味くてとても食べられたものではないのだろう、ということだけは保障をしておく。

こんな駄文を書いている間にも、嗚呼、また古紙回収の日が過ぎていく。

 

 

 

 

 

新入社員研修というもの

四月もそろそろ終わりが近づき、世間が大型連休に思いを馳せるこの頃、私はというと四月の大半、都会の喧騒から離れ、長閑な土地で日々を過ごしていた。

新入社員研修である。

生来二十余年、多くに従い、流れに抗わない事を是とする私であるから、世の中の学生諸兄と同じく就職活動に励み、大学を出、新入社員として数多ある企業、そのうちの一つに身を連ねることになるのは帰結として当然であった。
今まで遊び呆けていた報いとしての、懲役四十年である。

新入社員とは社会人の幼虫のようなものだ。
手始めとして、研修施設と呼ばれる飼育箱に入れられ、特段美味でもないひとつ300円の弁当と講釈によってぶくぶくと肥やされる。
身動きが取れなくなった新入社員の脳味噌は、自己啓発、社会人としての自覚、確定拠出年金等の小難しい言葉を並べ立てる事により加熱され、さながら蛹のごとく、正体不明の粘性液と成り果てる。
最終段階としてそれを企業理念だとか、規範だとかいった金型に押し込み、企業の思いのままに成型し直す、所謂鋳造行為を以って完成となる。
ここで多少の差はあれど、粗造で急造ながら一定の基準を満たす新社会人が世に羽ばたいていくことに相成る訳である。
やはり時代は大量生産なのだ。
蛾になるか蝶になるか、あとは自分でどうにかしろといった塩梅で、教育担当の方々とは研修が終われば今後大きく関わることもないらしい。
彼らの固定観念を取り払え、と言った口は舌の根も乾かぬうちに苔の生えたような企業理念を我々に植え付けようとしていたし、他の点でも矛盾を感じる部分がなかったわけでもないが、きっと我々以上に早朝から深夜まで奔走し、受ける必要もない講義を部屋の後方から絶えず見張る業務は大変なことであったと思うので、労をねぎらう気持ちを持ちつつ、自分が教育部に回されないよう祈っていたいと思う。

肉体的か、精神的か、はたまた両方か、損傷を受けて疲弊している同期も散見され、また彼らが意味を見出せないカリキュラムに愚痴を溢す光景も多く見られたが、何においても金を払う側だった学生を、金を払われる側の人間に改造するのだ、やはりこの程度の処置は必要なものかもしれない。

人が大勢集まり、先人の遺した思想について思いを馳せ、社訓などを音読する様は、一種宗教的なものを連想させる。
精神を参らせたところに、企業という巨大な拠り所を提示すれば、場合によっては心の隙間に瞬く間に滑り込んでしまう場合もあるだろう。
結局のところ人間も動物であるから、群れないと生きていけないし、誰も彼もがお互い、何かに縋って安心感を得たいのだ。
私は依存という状態が苦手だし嫌いだが、人によって求める拠り所は違うだろうし、それに縋ることで当人達にとって良い方向へ作用をするのならば、わざわざそれを嫌味ったらしく否定する必要もないと思う。
それにここで生まれた会社の信奉者は、もしかすると将来を担う重鎮の一柱となる可能性もある。
そういう同期には是非死力を尽くして頑張って頂きたいし、会社の規模を大きくして私の足元を盤石にしたり、世間から見た会社の評判を上げることで、そこに勤める私の評判も相対的に上げてほしい、そして会社の利益を上げるついでに私の給与も上げてもらいたいところだ。

以上が私の新年度の始まりから数週間を投じて経験した、新入社員研修の大まかな所感だ。
研修中に毎日課されていた講義の感想文において、研修最終日に、私は最も完成度が高かったうちの一人であると表彰をされたが、結局頭の中で考えているのはこのような碌でもないことばかりであり、採用等にも関わっているであろう教育部のベテランの方々も文字からではやはり人間の表層しか読み取ることは出来ておらず、文章で人を推し量るのはやめた方が良いことを、彼らの目には触れないであろうネットの片隅に添えておく。

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研修中の休みにふらっと訪れた鴨川。岸辺には夏用の櫓が整然と組まれていた。