【微忙録】

明日の自分への覚え書き

あまねくすべての母

ママーーーーー!!

 

今日もSNSでは母親を呼ぶ声が飛び交う。

彼らの発するママとは、実の母親でも義理の母親でもなく、精神的な母親を指している。

少し前からバブみ、だとかオギャりという言葉がオタクたちの間で少なからず浸透している。

私の記憶の限りでは、近いところだと艦これの雷、アイドルマスターシンデレラガールズ赤城みりあなどが、この言葉が大きく流行した際の立役者であったと思う。掘り起こせば機動戦士ガンダムのシャアがララァに対して持つ感情もバブみらしいのだが、ガンダムに関しては造詣が深くないのでここでは触れないことにする。

 

ここまでの話で何のことやら、と思う方々に簡単に説明をすると、年下の女性に母性を求めることである。

本来母性というのは、呼んで字の如く母親が持つ、子供を守り、育て、無償の愛を捧げる性質のことを意味する。母親に限らずとも、年上の女性の持つ包容力など精神的な安らぎを与えてくれる性質の事を指すこともあるようだ。

 

母性を求める対象が母親でなく、現実の女性でもない二次元のキャラクターになり、あまつさえそのキャラクターは年上でもない。この三段階のパラドキシカルをいとも簡単に跳躍し、バブみを求めオギャリティに浸るオタクが増殖しているのだ。三段階飛ばしの深刻さをデジモンで例えるならば、コロモンがウォーグレイモンに進化する事と同義であるので、どれだけ大変なことか理解頂けるだろうか。

 

母性を求める精神は承認欲求、もしくは純粋なキャラクターへの愛から生じていると考えられるが、その形は時代とともに変化しているように思える。かくいう私も20年と少ししか生きていないので正確な変遷の歴史は把握していないのだが、少なくとも2010年ごろは「俺の嫁」という言葉が横行していたように思う。これはキャラクターへの愛情が限界を超えたオタクが、自分はこのキャラクターを愛しており、その愛情は閾値を超え、もはや配偶者と表現しても問題がないレベルであり、重ねて言うとその関係性は不可侵であるという主張を僅か三文字で表現したものである。こんなところで日本語の妙を感じたくもなかったのだが、恐らく遠からずなことを当時このセンテンスを使用していたオタク達は意識的、無意識的に関わらず感じていただろうと思う。ただ物事、とりわけ言葉には流行り廃りがあり、流行るにつれてこの言葉を用いるカジュアルなオタク達が増えるにつれて、言葉の持つ重みは減っていき、やがて知らぬ間に消えていったように思う。今考えてみればこの「俺の嫁」なる言葉は当時のオタク達の、二次元のキャラクターを自ら扶養してやろう、という気概を少なからず感じる。

対して昨今の母性を求める「バブみ」は大きく方針を転換しており、自らの立ち位置を被保護者へ移している。自分を弱者へ、もしくはキャラクターを母という強い存在へと都合よくコンバートし、その位置に安住する。つまり自身の感じたままにキャラクターを再構成しているのだ。本来そのようなキャラクター性を持たないものにも、意識の持ち方により母性を付与することができるのだ。これはキャラクターの造形を借りた傀儡妄想となるのか、それともキャラクターの新たな可能性を開拓する一歩となるのか、それは恐らく各々の中にあると思われる。

この社会は、精神的な自立は問わずただ年を重ねただけで大人と見なされ、周囲から自立や自覚を絶えず求められることになる。社会人ともなればそれは当たり前であり、より顕著なものとなる。そんな境遇に陥ったとき、人の優しさに触れる機会が少なく、周囲からの圧力や軋轢で磨耗してしまったオタクたちの精神は、心のバランス、平穏、安寧を保持するために防衛機制を働かせ、自分を保護される側へ退行させるのだ。少しでも苦しみの少なかった世界、原初へと回帰しようとしているのかもしれない。