【微忙録】

明日の自分への覚え書き

生存

前回の投稿が6月の20日と、わかりやすく更新を怠っていたが、体調に不良を来したわけでも、飽きたわけでも、過酷な労働条件に辟易したわけでも、ましてや世を儚んだわけでもない。確かにこの頃の気温と湿度は私の体を日々苛み、融点が恐らく摂氏45℃*1であるところの私の肉体は今か今かとアスファルトに染み込む時を待っている気がしないでもない。しかしながら私は至って健康であり、頭の片隅には常にこの落書きじみた文章群についてが存在し、存在するかも分からない架空の読者諸兄が更新を急かしているのだ。

 

私の更新スタイルとしては、雑多に書き貯めた文章を、20:00に予約投稿をし、それをおよそ一週間毎に*2実行するのを繰り返すものだ。今現在下書きのストックは幾つかあり、あとは予約投稿して世に放流するだけなのだが、ここに一つだけ問題があり、それが更新を阻むのである。

 

「これは本当に面白いのか?」の病である。実に不治の病なのだ。そもそもこのブログは自分の考えを多少なりとも整理して、後に見返し、「この時はこんな事を考えていたなあ」などと感傷に浸る(予定の)、その名の通り備忘録のつもりで執筆にあたっているわけだが、更新直前に読み返した時点で、あまり面白くなかった場合、更新予約を取り消すのだ。自分で読み返すことを想定して書いている手前、今現在の自分が読んで楽しめないものを後の自分に向けて形にする必要はないのだ。

 

当たり前だが、予約を取り消した原稿は熟成させれば面白くなるということはない。創作活動、ましてやデータという媒体に関して、電子的微生物や電子的酵母が存在しない以上、腐敗も発酵もしない。予約を取り消した状態を半永久に保ってしまうのだ。故に手直しをすべきであり、事実手をつけるのだが、直せども直せども改善の余地が見つかり思考の螺旋に陥るのだ。これが病である。結果として、手直しをしすぎて最終的に笹掻きの行き過ぎたゴボウのように尖り果てた極論の塊が産まれるのだ。見るに耐えない無残な痛々しいそれをネットの海に放つのは心苦しく不快なことで、何より無責任だ。私はSNS*3で放り投げていた取り留めも中身もない散文的な投稿に無益さを感じてしまい、長文に鞍替えを図ったので、あまりにも中身がなく短い文章を投稿してしまっては元も子もないと感じてしまうのだ。ただ、これを繰り返していてはそれもまた無益で無価値であるので、どこかで区切りを付けて完成とするしかないのかもしれない。

 

言い訳がましくこれを書いて投稿して、一体何が言いたいのかというと、非常に簡単だ。つまり、今日も私は平和に生きているということなのだ。

 

ループ (角川ホラー文庫)

ループ (角川ホラー文庫)

 

 

 

*1:原子番号19 Kカリウムの融点は64℃である。

*2:更新日時を見て頂ければ一目瞭然だが、この男はよく忘れる。

*3:主にTwitterである。