【微忙録】

明日の自分への覚え書き

社畜牧場

このブログは月刊ではなかったはずだが、前回の更新日を見ると、またもやこの体たらくである。自分に課したノルマくらいは果たして生きていきたいものだが、現実はそうもいかない模様である。

 

社畜、という言葉は世間一般に定着して久しいように思える。たくさん働く人を揶揄したり、自らに対して自嘲気味に用いる場合もある。

社畜

社畜(しゃちく)とは、主に日本で、社員として勤めている会社に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷(家畜)と化したサラリーマン、OLの状態を揶揄したものである。「会社+家畜」から来た造語かつ俗語で、「会社人間」や「企業戦士」などよりも外部から馬鹿にされる意味合いを持つ。

(Wikipedia 当該項目より)

家畜動物は、食べられるために産まれ、食べるのに都合の良いように作り変えられ、食べられるために肥え、そして使命を全うする。食べられないとしても、牛であれば牛乳を、鶏であれば卵を、本来の目的とは異なり、人間のために供給し続ける。その身を全て、人間に利用されることが運命付けられた動物である。

一方社畜というのは、働くために就職活動をし、働くために都合の良いように思想を植え付けられ、働くために働き、耐用年数を超えたり、使えなくなれば捨てられる。働くことそのものが価値になり対価を得る場合もあれば、働いた結果産まれたものに価値が付与され対価を得る場合もある。その身を全て、会社に利用されることが運命付けられた人間である。

意図して似たような文体にしたので、家畜も社畜も変わらない、可哀想だな、などと錯覚される方も読者諸兄の中にはおられるかもしれないが、家畜と社畜の間には大きな違いがある。

 

社畜は生まれながらのものではないし、脱却不可能なものでもない。社畜というのは「社畜という人種に遺伝子組み換えをされた、働くためだけに生まれた人間」ではない。働くか働かないかは個人の自由である。勤労の義務などは今や形骸化し、スローガン的な意味合いしか孕んでおらず、そもそもが憲法なので国民が守る筋合いのあるものでもない。自分で会社を選んで、自分で働いておいて他者から社畜などと称される、あまつさえ自ら社畜を名乗り出るのは、なんとも荒唐無稽な話ではないだろうか。

私見だが、労働とは苦痛である。可能であるならば、しなくて済む方が無論楽だ。しかしながら、対価としての給与のことを鑑みれば耐えられない類の苦痛ではないのだ。以前も述べたが、労働というのはこの苦痛の時間と報酬の交換である。交換であるならば、苦痛の時間を差し出さない選択肢、つまり仕事をしない選択肢もあるはずだ。

社畜なる状況に甘んじて、日々連なる艱難辛苦に為すすべもない。自らの生活は人間のそれではなく、最早ただ働くために生み出された企業の尖兵だ、さながら家畜だ、と。そう考えながら生きて行くことを是とするのか、それとも腹をくくり仕事を辞め、日々天から金が降ってくるのを今か今かと待ち構え、世間から後ろ指を指されるのか、両者を天秤に掛ける必要がある。

 人間、向いていないと感じるのならば、辛いと感じるのならば、そんなものは辞めてしまって良いのだ。自らを畜生だと貶めるくらいならば、生きていても死んでいても変わらないのではなかろうか。

物事を続けるのと同様に、始めることにも大きなエネルギーが必要だ。電動機は始動する為に必要な電流が負荷電流の三倍必要だという。動き始められることが出来たのなら、慣性に従って動き続けることもまた可能である、むしろ流されるままに生きることが楽であると考える。仕事を辞めるのにも、人生を辞めるのにも、きっと想像もつかないようなエネルギーが必要であり、そのエネルギーに比べれば、嫌な事に耐えるくらいは平気なのではないだろうか。

散文的にどっちつかずの意見を書いているが、ともあれ、死ぬほど仕事を辞めたいのならば辞めるといいし、死ぬほどではないが嫌なのならもう少し続ければいいし、特に何も思わないのなら、嫌になるまで続ければいい、と私はこの何ヶ月間は考えながら労働に従事しているという、ただそれだけのことなのだ。

 

5000兆円が欲しい。 

 

畜生
畜生は、苦しみ多くして楽少なく、性質無智にして、ただ食・淫・眠の情のみが強情で、父母兄弟の区別なく互いに残害する人間以外の禽獣虫魚など生類をいう。その種類はすこぶる多い。住所は水陸空にわたるが、本所は大海中に在すといわれる。
(Wikipedia 当該項目より)